09 June

六月の模型少年

 白い女性の手が、小さな窓からそっと差し出される。顔がはっきり見えない分だけ、券をつかむその指先が妖しい香りを放っていた。顔が見えないというより、こっちが顔をしっかり見ようとしない行為。金を出し、券が指と一緒に出てくる小さな窓口の関係。深夜映画に入る時などはいつもそんな小さなドキメキ感があった。そこからもう映画の世界が始まっていたのだ。近頃は自動販売機がはびこり、人の手が物を売らなくなったのでチョイトつまらない。でも、僕は見つけたのだ…。
 函館の中に、国がある。「こどものくに」という小さな国だ。函館公園内に昭和31年5月開国。今だに滅んでいないスバラシー遊園地だ。なんとかランドの様な立派でデラックスな施設ではないが、この渋くて可憐な空間は尊い。間違いなく貴重なレトロである。この懐しい古さは今の時代で逆に新しいテイストを感じさせるのだ。11機種の遊具が昔と同じ場所に当り前の様に存在している。小さい頃は広くてデッカク思っていた。色んなものがギューギューにつまっていて、食べる前からおなかが一杯にならちゃう様なスケールだった。単純にグルグル回転するプランコに乗ってイタズラに飛び降りた事がある。すり傷で何ともなかったが、僕の為に係のお姉さんが上司の人に叱られていた。非常に申し訳なくって素直に謝ったら「ダメヨッ!」とチヨット睨んですぐニッコリ微笑んでくれた。ヤサシクってキレイな笑顔だった。
 東京から帰って間もない頃、僕たちは夜毎街をふらついていた。何か満たされない気持の石ころが心の中にあった。深夜に公園に忍びこみ、ワイヤーでつるされたブリキの飛行機に乗った。動かない、飛ばない飛行機は淋しいにおいがした。僕たち三人は、女一人に男が二人。三人共、同じ重さで愛し合っていた。明らかに満開の三角関係だった。独り占めできない性癖が各々にあって、三人はいつも三人っきりの恋人たちの様だった。男が車にギターをとりに行った。深夜のブリキ飛行機の中に僕とM子は二人っきりになった。キッスしようと思ったが出来なかった。飛行機の中では出来なかった。多くの子供達が見ている様な感じと何かを裏切る様な不浄感があった。缶ビールを開けた。その昔が公園に響いて風が吹いた。花を散らした後の桜の枝がハッと目を醒ましたみたいに小さく揺れた。春でも夏でもない中途半端な季節の中で僕は少しムシ暑い夏を予感していた。遠くに立待岬が見えた。いつも朗らかなM子が珍しく黙って、夜空を仰いでいた。
 先日、久しぶりに「こどものくに」に意識的に入った。券売り場で「大人一枚」と言った。値段は大人も子供も一緒だ。若い女性がサッと券を切り、差し出した。顔も手の指も見えた。「アリガトウゴザイマス」という肉声も含めて、全てが健康的だった。ハイライトを買う予定の小銭を払って、僕は飛行塔に走った。自分はあの飛行機にもう一度乗りたかったのだ…と走りながら気がついた。飛行機はアルミの頑丈な機体になっていた。赤いヤツに乗った。遠心力で少しずつ機体が上がって行く快感は昔も今も変わらない。振り向いたら、黄色いヤツに乗っている三才位の少年が手を振った。若いお父さんと一緒で、とても嬉しそうだ。父と乗った記憶が僕には無い。低い空をグルグル飛びながら僕は突然、模型ヒコーキを思い浮かべた。木と紙で懸命に作った自分のヒコーキが青い空を泳ぐ姿は美しかった。まるで自分が飛んでいる様な喜びだった。羽の角度を慎重に整え、編んだゴムを巻き、丁寧に空へ放してやる。胸が高まる。一瞬の静寂の間(ま)を捕えて僕は手をはなし、同時に僕は自由を得て空へと開放されるのだ。西部地区にも模型店がけっこうあり、大黒町の石田模型店はヒコーキの部品が一杯あった。昔々の模型少年がそのまんま大きくなったニヒルな親父はもういないけれど、奥さんが頑張っていて店は健在。ありがたいコトです。模型ヒコーキのゴムが不足してると嘆いていたそうだ。宝来町にはダルマ屋という模型屋があって、本当に毎日のように行っていた。こちらも超個性的な心やさしき怪獣みたいなオバさんが子供たちを指導して、別世界に遊ばせてくれた。今の工芸舎の場所なので、行く度に模型と少年たちの姿を思い出す。模型少年は少なくなったけれど
 模型少年的心は不滅であって欲しい。町にはまだまだ古いものが色々と残っている。自力で足を踏み入れれば、素敵な旅をしているような気分になれる。函館の光と空気は六月が一番!探せばキット見つかるヨ。
(タウン誌「街」2000年6月号)


01:28:00 | yamajo | 1 comment | TrackBacks

08 November

十一月になれば牽強附会

平成11年 晩秋にて
今朝、雪虫に出会った。チッコイのが一匹、ヘラヘラと地面すれすれを浮遊していた。まだ高くは飛べないようだ。仲間が殖えて、うちの姫林檎の木に群がって踊り回るようになったら、いよいよ冬の合図だ。この古い木はカール・レイモンさんが植えて大切にしていたものだ。彼が亡くなってから勝手に”僕んちの木”と思い込んでいる一本なのだ。決して立派なものではないが、姿がリンとしていて気品があり、適度に意志の強いオバァサンみだいな木だ。今、ちっちやな実をさりげなく一杯つけていて、なんだか嬉しそうだ。 昔は雪虫が驚く程たくさん舞っていて鼻や口に突入してきた。目の中に入って大騒ぎした友達もいた。あの目の朝、僕は雪虫を呑み込んだ。苦くて寒い記憶だ。そしてその夜、ある言葉を教わった。こちらは甘くて暖かい記憶である。あれからもう17年も時は流れた。                                            僕には父がいた。確かにいた。商人だった。父には親友がいた。函館商業高校時代から50年以上も仲良しだった。その小山さんの商売は今でいうギフトショップ。スクーターに乗って全道を回り、カレンダーや団扇を大きく商っていた。スクーターに乗る姿にベレー帽がかっこ良く、とってもイカシテタ。心やさしい人で、姑や小姑がいるから可愛そうだと妻を気使い、出張先で急病を装って奥さんを呼び、労ったりしたそうだ。全体にモダンで酒脱な感じのおじさんで、堅物風の父とは違う風の香りがあった。                            小山さんと父の二人は酒を愛していた。二人で飲む酒が一番だったのか、本当に楽しそうに嬉しそうに杯を交していた。目本酒派の父と違い、小山さんはブランデーを飲んでいた。ブランデーを飲む人間を初めて見たのが小山さんでフランス語を知っている目本人を初めて見たのも小山さんだった。僕が函館にカムバックしてから小山さんともよく飲んだ。父は人に酒を勧めるのが病的に好きで、飲めない僕の友人にも無理矢理飲ませて具合悪くさせた事もあった。その友人は今や大酒飲みに成長し、今だに僕の父を明るく恨んでいてくれる。                 さて、小山さんと飲んだ最後の夜。父はあまり飲めなくなっており、熱燗の徳利みたいにゴロンと横になってしまった。「セーイチ君!飲み直そう」と言って小山さんはブランデーを注いだ。一何か音楽をかけよう」と言うので丁度あった『舶来流行歌集』をかけた。これは柳小路にある一杉の子」のマスターにお借りした、昭和初期に目本で流行した洋楽の原曲を20曲オムニバスした素晴らしいLP盤だ。小山さんは殆どの曲を当り前の様に歌えた。ジャン・ソルビェの「菫の花咲く頃」、ミスタンゲットの「サ・セ・パリ」、ジョセフィン・べーカーの「二つの愛」。特にビング・クロスビーの「ダイナ」は完壁な歌唱でディック・ミネもマッサオって程だった。昔は時代を担う歌が確実にあった。全ての人の心にひょいと沁込んだその時代の空気や臭いや精神が歌の中に生きている。自分の時代を素直に受け入れた、かけがえのない自分達のアコガレを嬉しそうに歌う小山さんの顔は少年の様に輝き真赤だった。頭も光っていた。            宴の最後に小山さんは真顔になって「ヒトツ、言葉を教えよう」と言った。「ケンキョウフカイ」。僕は咄嵯に「県境不快?」と連想したが「牽強附会」だった。自分の都合の良いように無理に理屈をこじつけることだと言う。そういう人生はイケナイよと語ってくれた。誰でもがやっている事とも思えるし、そうでない人もいる。牽強附会を僕もやっているかも知れない。でも、このひとつの言葉をあの夜知った事と教えてくれた小山さんの事を忘れないでいようと思っている。                一年後に父は死んだ。入院中で葬式にこれなかった小山さんは心のこもった厚い手紙を母と僕に送ってきた。無念の想いがあふれていた。驚くべき達筆だったが後半、字が泣いているみたいに震えていた。うちの父も字にはうるさかった。晩年になって改めて書道を習いに行った。人間の書く字というものは、その人を表わすものだと言っていた。確かに父の字は父そのものの様に見える。小山さんの字も小山さんに見えた。その小山さんは父の死の直後に亡くなった。死ぬ時まで一緒だったとは、本当に仲の良い男達であった。                       
 僕は、小山さんの親友だった時の父が好きだった。小山さんは豊という名の父のことを、「トヨさん!」と呼んでいた。色々な表情のその響きと共に「牽強附会」という四文字がこの季節になると、枯葉の様に舞い降りてくるんだ。
(タウン誌「街」 1999年11月号)
17:17:00 | yamajo | No comments | TrackBacks

03 October

十月になれば迷月赤城山

 1999年。その夏の猛暑が微妙に失速した頃、支笏湖に一泊した。念願だった丸駒温泉の天然露天風呂は野生的でお湯の加減もバッチリだ。朝靄の中、湯にユッタリとつかり湖を眺めていたら、何やら神秘な気分になってきた。湖の水面が上がっていて天然風呂も深くなっていた。体を動かした時、底の玉砂利に足がズルッとくいこんだ。その一瞬、右足の感覚がある記憶を強烈にフイードバックさせた。それは赤城山のズブズブ事件。もう27年も昔の話だ。                        1972年。ジャニスが死んだ2年後の秋。J子と行く筈だった赤城山に僕は一人で行った。とにかく行ってみたかった。国定忠治や東海林太郎や木枯し紋次郎のフリークだった訳ではない。原口統三が書いた「二十歳のエチュード」という文庫本を長いこと大切にしていた。高校時代から僕の心の支えになっていた一冊だった。東大の学生で、精神の彷徨を綴った遺書の様な本だ。彼が死んだ場所に行きたいと思い続けていたのだ。出発の日、「バニシング・ポイント」を見た。デンバーからシスコまでを時速200キロでぶっ飛ぱし自爆する男のカーアクション映画。反権力とカウンターカルチャーを感じさせるスピード感に満ちたスゲェ作品だった。その後、ノッタリと走る一車両の八高線で群馬県に向かった。映画と現実におけるスピード感の落差が返って移動している実感を与えた。大都会のすぐ近くに、こんな田舎的風景が存在している事に驚きつつ僕の気持ちはなんだかホット安らいでいた。赤城山は1828mもあり以外に大きかった。道なき道をシャニムに登った。大沼(オノヌマ)の存在を僕は知らなかった。じっとりとした草原の向こうに小高い場所があり、そこだけを見て進んだ。瞬間、左足がニュルッと沈んだ。咄嵯に右足を前に踏み入れた。その二歩目がヤバカッタ。粘りのある泥の中に靴がズプズブとめり込んでいく。もがくうちに膝まで沈みジワジワと体が落ちて行く。そこにはダーレもいなかった。不安と恐怖という名の風の音が体中に響いた。ザックを放り投げてなんとか脱出した。泥まみれだった。右足を痛めたので静かに歩いた。暗くなってきたので野宿した。無謀だった。闇の中で空を見た。月がボンヤリふらついていた。名月じやなくて「迷月だ」と思ったら可笑しくなって一人で笑った。それから涙が出てきた。訳もなく泣けてくる事がある。悲しいとか辛いとかではない。人生命の中に含まれている必然の涙なのか。とにかくその時僕は、世界一の独りぼっちを感じていた。でも、宇宙の中では迷月と二人ぼっちなんだネ、と想って頬を擦りながら眠る努力をした・・・。     烏の声で眼がさめた。その鳥に感謝したかった。朝日が山々を輝かせ大自然の命が静かに息づいていた。美し過ぎてボーツとしていたら、また涙があふれた。昨目とは違う色の涙だった。ゆっくりと貴い朝を堪能し、それからJ子に手紙を書いた。ながーい手紙だった。そして時間をかけて下山した。その夜、高崎の屋台で飲んだ。川沿いにポツンとある不思議な屋台では、なんとジャズが鳴っていた。その日はマイルスの夜だそうで「ラウンド・ミッドナイト」と「カインド・オブ・ブルー」を何度も回していた。迷盤ではなく本物の名盤である。左隣に何故か二人のアメリカ人がいて、日本酒を飲んでいた。髭面で長髪の屋台主が「山フグ」を皆に出してくれた。日本一の下仁田コンニャクの刺身は明らかに美味かった。外国人は恐る恐る口に運んで首をかしげていた。一人は陽気でもう一人は陰気だった。陽気なジョニーが「旅をしてるのか?」と聞くのでイエスと言った。「どの位?」ときたので「スリーデイズ」と答えたら驚いた表情をした。問い返したら、なんと彼等は三年間も旅をしていて、これからアジアを回って二年後に帰るのだと平然と言う。旅の感覚(スケール)が違うので、こっちこそ驚いた。旅と生活(生きる事)が一緒になっている。僕なんかチッポケな小心旅行者だな〜と感じ入った次第。僕達はお互いの国の言葉もろくに出来ないのに、何だか随分通じ合った。彼等はハーモニカを持っていた。こっちも持っていたので川原で一緒に吹いたり唄ったりした。カントリーやブルースがとても上手で本場のフィーリングが嬉しかった。遠くに山並が見えて、その上に月がニッコリ落ちていった。       最後にフォスターの「スワニー河」をしんみり演っ手を振りながらジョニーが「テイクイットイージー1」と叫んで、親指を突き出した。大変カッコ良くって、また涙コボレタ。赤城山で書いた長い手紙はポストに入れなかった。川で物資を運んでいた江戸時代に栄えたという倉賀野で画用紙を買った。「原口統三」と大きく書いて紙飛行機を作り、橋の上から飛ぱした。川の真ん中にフンワリと落ちていった。あの利根川の流れに乗って太平洋まで旅をしただろうか・・・。色々な「お別れ」が終わった。東京に戻った僕は、それから本気で大学に行く為にお勉強したのでありました。
(タウン誌「街」 1999年10月号)
03:11:00 | yamajo | 4 comments | TrackBacks

18 September

九月になれば看護婦になりたい

 1971年初秋。 上野駅で僕は、人を待っていた。懸命に待っていた。結局その人は現れず、胃がシクシクと病んだ。その頃は上野駅がキラィだった。全てのイナカに逃げる入口のようで、生理的に嫌悪していた。近親憎悪的な反発だったのかもしれない。予定の狂った僕の眼に映画の看板が飛びこんできた。実相寺昭雄の「無常」という映画。中に入ると胡桃の臭いが鼻を刺激した。男達の臭いだ。決して気持ちのいいものではなかったが、それはその映画の置かれた立場を感じさせる臭いだった。作品は傑作だった。目本的無常観とエロスを描いた近親相姦映画という事になっているけど、京都の寺や町をしっとりと映し出すカメラの動きが絶妙で、それは映像でしか表せない映画のマジックだった。田村亮や司美智子の姿もリアルだった。魔法にかかった僕は二回も見てしまい、小屋を出た時はもう夜が終りかけていた。夜でも朝でもない一瞬の光景があって、都会のその一瞬は限りない静けさと透明感があった。あの頃は深夜映画館がたくさんあって、外に出た時の眩暈感がなんだか快感でありました。待っていたJ子の事が気になった。待つ方も辛いけど、待たせる方はもっと大変だったかも知れない、と思った。思い切って電話した。母親が出て「娘はいない」と言ったがそれは嘘だった。数目後に新宿のロック喫茶で逢った。「上野駅で二時間待ってたんだぞ!」と怒らずに笑って言ったら、「アタシも待ってたよ」と、睨み返してきた。なんと、彼女は1時に待っていた。僕は七時に待っていた。電話でシチジがイチジになっていたのだ。僕は笑えず自分の発音を後悔した。彼女は新宿に戻って映画を見て家に帰り一晩中、ジャニス・ジョプリンを聴きまくっていたそうだ。         本当にJ子はジャニスに心酔していた。スタイルもジャニス指向で、ベルボトムのGパンに少しヒッピー風のシャツを着ていた。当時はジャニス風のロック少女が結構いて、その中でもJ子は可愛いい、一番下の妹ジャニスって感じだった。ジャニスになりたいと本気で思っていたようだ。しかし、誰もジャニスのようには歌えない。ましてや誰もジャニスのようには生きられない。なぜジャニスはあんな凄まじい声で歌えたのだろう。70年の10月4目にハリウッドのモーテルで死体となっていた時、27歳だった。死体の側に未開封のマルボロが転がっていて、手には釣銭らしい4ドル50セントが握りしめられていた。たった一人でヘロインを打ち、煙草を買いに出て、部屋に戻った途端にぶっ倒れたらしい。絶頂期のロツクシンガーの死としては悲惨なものだが、人間ジャニス・ジョプリンの死としてはピツタリだった。黒っぽい迫力のある歌、ワイルドなステージ。何もかもさらけ出すことの凄まじさ。圧えこめられ続けてきた人間の内部を露呈する衝動。たった3年位の間にロックを歌うことの型を強烈に築いた不世出の女性であった。                   J子はジャニス以外の音楽を認めていなかった。「男には、ジヤニスがわからないよ」とよく言っていた。その頃、僕はビリー・ホリデイの歌にのめりこんでいて、女だからとか男にしかとかいう考えは無意味だと思っていた。ネバーという単語の歌い回しはジャニスが世界一で、エヴァーの表現はビリーが一番だと言ったことがあって、彼女は「ウン」とうなずいていた。      あの日、9月18目のロック屋はジミヘンぱかりかけていた。一周忌だったのだ。ジミ・ヘンドリックスも27歳で死んだ。J子は何か悩んでいるようだった。店を出て歌舞伎町の小さな公園でブランコに乗った。思いっ切りこいで彼女は飛んだ。振り向いて何かを言った。次にJ子は「カンゴフニ、ナリタイ!」とシャウトした。キッパリとした高音だった。看護婦になりたい!と女は歌ったのだ。それもネバーではなく、エヴァーの響きで・・・。   ジャニスの一周忌に一枚のカードが届いた。「看護婦になるよ。サマータイムはジ・エンド。サンキュー」と胸をはるように書いてあった。ジャニスになりたい女が看護婦になりたいというのは大変な珍事であった。夏が終わるとジャニスの「サマータイム」と映画「無常」を思い出す。そして、上野から汽車に乗って赤城山へ二人で行こうという幻の旅がチクチク蘇えるのだ。J子という女は、本当にいい奴だったヨ。
(タウン誌「街」 1999年9月号)
02:08:00 | yamajo | 1 comment | TrackBacks

20 April

夏の最後に高田渡

 この世には「センセー」と言いたくなる人がいる。言いたくない人もいる。半分バカにしてセンセーと言っちゃう人もいる。学校の教師やお医者さんは別にして、何でもかんでもセンセーと書いたがる・言われたがる人種もいる。政治家にセンセーを乱発する人を見るとイヤな気分になる。気味が悪い。本当に尊敬して発する時の響きを自覚していたいと思う。
 さて、僕が正直に真心こめて自然に「大センセー」と言いたい人が日本にいるのだ。それは、高田渡という唄うたいである。フォークソングを歌うシンガーではなく丸ごと存在がフォークシンガーの生物なのだ。偽物フォークの正反対の所に瓢々と無理なく生存し続ける仙人みたいな人だが、喰い物や女性にも正しく色気があったりする。生臭い人間性も可愛く持ち歩いている。そんな高田渡が八月二十一日にあうん堂で歌った。六年ぶりのコンサートで渡さんは絶好調、なんと十八曲も歌った。体調も良好みたいで、ポリポソと語るお噺のマも絶妙であった。落語の世界である。彼はまさに円生でもあったのだ。腹の底から僕たちは笑った。幸福で無邪気な本当の笑いをクスクスゲラゲラした。
 六年前に僕がライブを主催した時、空港に迎えにいった。特注ワタルギ夕ーを抱えてモソモソと出て来た彼はシーラカンス化していた。多勢の客の中で彼だけがオーラを発していた。特別な臭いがあった。それもその筈、大センセーは御酒を召しており、目がうつろだった。逢うなり「まずは乾杯といきましょーかね」と言って「他の皆さんに悪いですから、こういう所ではビールでしょーね」と常識のあることを示し、僕等は缶ビールでカンパーイした。空港の到着ロビーで飲んだのは初めてだった。大センセーは細切れに眠る名人で、まるで借金を少しずつ返す様な風情がある。車の中で話している間に数分だけ返答が無かったりする。絶妙に眠っている。と思うと、数分後にさっきの答えが不意に返ってくる。不思議な体験だったが面白かった。そのライブは僕等の世代がたくさん来て、高田渡が目の前で生存しているアリガタサにドキドキ喜びながら拝んでいるようだった。歌なんか歌わなくたってよかった。二階堂の麦焼酎をやりながら円生みたいにブツブツ喋って、忘れた頃に時々歌つた。一分か二分で歌は終わった。昔「歌わないことが一番いいんです」と言った大センセーの真髄を小さなうす暗い空間で感じた。それでも二時間半で十曲位歌ったので最高だった。僕は色々なフォークシンガーを個人的に呼んでライブ主催を好きでやっていた。友部正人もシバもミチロウもやった。そして二十年かかって遠藤賢司をやり、ついに高田渡を函館でやった時、何だか夢が殆んど終着したよろな、そんな気分だった。
 七〇年代の初頭に僕は京都に数ヵ月いた。バイトしながらサスラッテいたのだ。渡さんの自作に「珈琲不演唱(コーヒーブルースと読む)」というのがある。三条堺町のイノダっていうコーヒー屋にあの娘に逢いにいって好きなコーヒーを少しばかり…というシンプルなカントリーブルースだ。最後の一滴が勝負さ、というフレーズが好きで僕はその歌のようにイノダによく行った。そこのコーヒーは最初からミルクが入っていて最初は驚いたけれど、慣れてくるとその甘みが気持ちの疲れをほぐしてくれてウマクなっていった。渡や友部やシバ達がここでこれを飲んでいたんだと想うだけで嬉しかったんだ。
 今回のライブでは古い曲をたくさん演った。だが、何ひとつ古臭くはなかった。今聞いても充分リアリティがあり普遍性があった。彼の歌には詩人の作品に曲をつけたものが多い。山之口貘、吉野弘、石原吉郎、黒田三郎、有馬敲など。味が深まることはあっても、決して錆びつかない歌ばかりだ。ピート・シガーやウッディ・ガスリーもちゃんと歌の中に息づいている。次の時代にこそ必要だと想われる歌の本質が、ふくよかに立ち上がっていて、ジーンときたのでした。いつまでも、死なないで下さいネ。

  さて、この夏(2000年)は猛暑だった。僕の体験した時間も猛暑だった。本物のセンセー達にもたくさん逢った。映画関係では大杉漣、ベンガル、かわなかのぶひろ、小林茂、相原信洋、写真界では吉田ルイ子。他にはケニアのミュージシャンやギリヤーク尼ヶ崎。あがた森魚もー杯お疲れサマーの御苦労チャマ。謙虚に入院していた我がハハもなんとか夏を乗り切りました。函館ロケを共にしたスタッフとの出逢いも忘れないよ。山口二郎に逢えた事も嬉しい大幸運。江差・姥神神社の祭も大カンドーでありました。そして、二十世紀最後の夏のオシマイは高田渡ダイセンセーでジ・エンド。
 さぁ次の世紀に向って新しい秋を始めよう。
(タウン誌「街」 2000年9月号)

14:03:00 | yamajo | 1 comment | TrackBacks

04 April

四月には初恋の日和坂

春の坂道を野球の球が転がって行く。少年が魅命に追いかけて捕まえる。逃した球はユッタリとグローブに返ってくる。
 小学生の頃、僕は野球少年だった.元町の少年野球チームは弱くはなかったが、いつも惜しい所で勝てなかった。試合の結果ではなく一生懸命プレイして、内容で負けてなければいいんだ、キレイな野球を楽しくやろう…と監督さんは言っていた。その通りに僕等は子供なりの野球を楽しんでいた。でも、たまには勝ちたかった。勝つ喜びという心境にはなかなか到達できる筈もなかった。四月になって雪が解けると僕等はすぐに野球にとりかかった。西部地区には広場がたくさんあった。町のそこら中で子供達はキャッチボールをしていた。町中が野球の地面なのだ。あの頃、日本中の少年達が野球をやっていたような気がする。幼少の年の差や地域の差を越えて、親しみが生まれる。ボールを投げたり受けたりしているうちに気持ちが打ちとけていく。
末広町のチームは強かった。ライバルだったけれど少し尊敬していた。日和坂の電車通りとバス通りの中間に木造の長屋があった。そこに住んでいたY君も末広チームの選手だった。「坂でキャッチボールすると上手になるよ」とか言うので彼の家の前でよくボールを投げあった。確かに下から投げるとチョイ卜しんどくて足腰が強くなる感じだった。上からだと相手が外さないようにと慎重に投げる集中力と制球力がつく。下手に投げるとボールが電車通りに飛んでいく。だから、三人で遊ぶことにした。一人が一番下で待っているのだ。早い話が単なる球拾いだけれど、これも結構面白い仕事だった。いつ球がやってくるかわからないし通行人や電車の動向にも気を配らなくてはならない。
注意力とフットワークが鍛えられる。上にいると港や空が広々と眺められ、下にいると函館山や民家をリリシク見る事ができた。
一番下にいて球を追っかけていると近所のオバサンによく叱られた。どこへ行ってもヤンチャをすれば知らないオジサンやオバサンに叱られた。町中に父親や母親がいるようだった。今はそんな事は失くなったみたい。地域社会の変貌ってやつだ。
 さて、日和坂で進んでいた理由はもう一つあった。Y君の住む長屋の隣がKちゃんの家だった。Kちやんは実はカオルちやんという名前で薫という漢字はこの子のおかげで覚えたのだ。目のばっちりしたキュートな女の子だった。姉ばかり何人もいたせいかどうか僕は妹みたいで小柄な可愛い子に目がなかった。小学校高学年あたりで本当に好きな女の子が三人もいたんです。そのKちやんが帰って来たり家から出てくるのを期待しつつ僕はキャッチボールを日和坂でしていた。ある日の夕方、Kちやんが電車通りから坂を登って来た。思わずボールを投げそこなつてKちゃんの足に当たってしまった。謝って、さりげなくKちやんの足を右手で擦った。足まで可愛らしかった。彼女は黙っていた。風が吹いて髪が柔らかく広がった。風の中で大人の顔になったKちやんがいた。なぜか今だに忘れられない痛烈な一瞬だった。
 日和坂は坂の上から広い港や高い空がよく見えて、空模様が判断できることから明治時代に命名された。つまり気象台のような坂であり,生活に密着した坂だったのだ。北海道第一歩の地碑のある旧桟橋に降りたった人々もこの坂を見上げたことだろう。レイモンさんと天津で再会するため、大正11年に旧桟橋から積極的に旅立った勝田旅館の娘コウさんも船の上から日和坂や函館山を見ただろうか。
 中学生の時。日和坂から広々とした空を見ていた。残念ながらKちやんと一緒ではなかった。転校してしまったのだ。国語の先生が教えてくれた短い詩をその時、思い出していた。「雲」という詩だ。「くものある日/くもはかなしい//くものない日/そらはさびしい」。それだけの五行の詩。大きな詩だと感じた。深い心象だと思った。高校になってそれが八木重吉だと知り詩集を買った。彼の詩は元町の教会や坂道にフィットしていた。
 1997年に映画「愛を乞う人」のロケがあり、日和坂の登りロも使った。昭和40年の回想シーンで坂と電車のイメージを追って日本中を探し回ったそうだ。母と娘の愛の絆を描く強烈なこの正統派日本映画は海外でも評価され日本アカデミー賞も総なめした。美術も賞をとった。日和坂の情緒を見事に映画に生かしていて感心しちゃった。原田美枝子が娘を追っかけて飛び出してくる木造の家がKちやんの家で何やらジーンとした。あの坂には今や日本中が失った大切な風情が町並としてヒッソリと美しくあったのだ。先日、次の映画ロケの話があり古い町並が必要で日和坂も候補に上がったがダメになった。高さ25メートル弱の借上げ市営マンション建設のためだ。                 小雨も似合う坂で昭和中期の雰囲気、しみじみと町の体臭を湛えた坂道だった。ある日突然、100年分の町の風情が消えてしまった。風情とは風の情だ。今度は情容赦のない悪い風が吹くのだろうか。色々とカナシーね。



17:07:00 | yamajo | No comments | TrackBacks

03 March

三月になれば霧笛が鳴っている

「Mちゃんに、好きだよ・・・って、ちゃんと言ったのか?」・・・友人がポツリと訊いた。高校時代が終った三月の末、僕たちは連絡船のデッキで海峡の水を見ていた。手すりに肘をつき、顔をうずめてポンヤリと緊張していた。視線がとらえた瞬間に波は急速に遠ざかって行く。何もかもが忙しく遠い所に去って行くようだった。「山が小さくなってきたな」「函館が向こう側に動いていってるみたいだ。鈍い雲が空を覆い、海も暗くなってきた。僕たちは小さく会話しながら、いつまでも海峡を眺め、古里を離れていく移動感をかみしめていた。
 高校紛争で僕は、訳のわからない徒労感の中にいた。幼な友達が退学になったり停学になったりした。僕は過激派でもノンポリでもなく、前者の気持ちを後者に伝えて底辺を広げるような位置にいた。ギターを弾いて反戦フォークを唄ったり、教師をオチョクル歌を作ったりもした。停学になった幼な友達の家に行くと私服の警官が回りを歩いていた。イヤーな予感とキナ臭さが、いつもあった。卒業式に僕は出なかった。仁山の奥に行って一人で卒業式をした。雪が深く、寒い目だった。とにかく東京に行こうと決心した。友人も行くと言った。ボブ・ディランのレコードとギターを持って船に乗った。ヤマハのクラシックギターに半分だけスチール弦を張った工夫の一本は大好きな響きを出す宝物だ。海を見ながら、これからの不安と期待がゴチャゴチャに頭をめぐった。でも、輪郭のはっきりしない不安の方が重く増殖していた。
 船が揺れてきた。船室に戻って眠ろうとした。強いイビキで洩い眠りが醒めた。女の人のイビキだった。身なりのキチンとした美人が、口を半開きにして眠りこけている。どんな夢をみているんだろう。イビキの音の激しさから、美しい夢ではないなと勝手に思いつつ、落としていたコートを下半身にかけてやった。髪の長いイイ女だった。女性がイビキをかくのを初めて見た気がした。なんだか安心して心が和らいだ。もちろん、それ以上その人に触れることは、しなかった。僕には理性があったのである。
 ギターを持って外に出ようとしたが、寒そうなので扉の内側の階段に腰かけた。指で静かに弦をはじきながら、好きだった女の子の為に作った曲をヤサシク唄った。僕はその子に「好きだよ」って、ちゃんと言っていない。でも、この曲を一度だけ聴かせた事がある。それが僕の告白だったけど、ちゃんと伝わったのだろうか。友人が言うように、言葉で真正面から伝えないと心は届かないのだろうか。などと幼稚なことを思っていたら、一人の紳士が声をかけてきた。「PPMできるかい?」。感じのいい人だったので"虻と共に消えた恋”を弾いたら上手にハモってくれた。もう一曲やろうと言うので今度は高石友也の"思い出の赤いヤッケ”を演った。歌い終わらないうちに突然、船の人達が階段をかけ上がってきた。外が騒がしいので行ってみたら、誰かが海に落ちたらしい。海は真っ暗で何も見えない。女性らしい。咄嵯に、「失恋自殺?」そんな気がした。何か、切なかった。
 席に戻ると友人は疲れた顔をして眠っていた。イビキの女性も軽い寝息をたてて眠っている。今度はイイ夢をみているみたいでホッとした。さっき一緒に歌った紳士がビールを買ってきて僕を誘いに来た。彼の席は一等船室で素朴に驚いた。田宮二郎に似ていたが声はダークダツクスのマンガさんの様だった。船から飛びこむと、よほど遠くへ飛ばない限り、強い水流に巻き込まれて窒息死するか、スクリューに巻き込まれて・・とか言って辛そうな顔をした。想像したらこっちまで苦しくなって、絶対に船から飛び降ひるまいと堅く決意してしまった。何故か死に方に関する知識が豊富な人だった。死んだことがあるに違いない。
 二ツ目のビールが終わる頃、霧笛が鳴った。
 青森に着くと紳士は速い汽車で東京へ向かった。僕たちは準急で東京を目指した。イビキの美女はいなくなった。超コンデル汽車の通路に小さく蹲って長い時間が過ぎた。当時、東京は遥か彼方の都だった。連絡船で海を渡った全ての人の心に色々な霧笛が鳴ったことだろう。三月になれば、あの時の霧笛が今も聴こえて来る。
 別れ際に、あの紳士は「神様には前髪しかない」と言った。後髪が無いって事は後髪を引かれない訳で、つまり、あとに心が残ったり、未練がましい人生を送らないように・・・ってな励ましのお言葉とズーツと思っていた。それが実は「チャンスは逃すな」という意味らしい事を最近知ったのだ。もう手遅れかもしれないな。
(タウン誌「街」 2000年3月号)
15:13:00 | yamajo | No comments | TrackBacks

16 February

二月になれば、雪よ輝け!

 山の上から赤や緑の光線がビュンビュン飛んだ。街の上空を飛びかうレーザー光線は冬の寒さを切りさいて、熱くメッセージを投げかけていた。
 1986年2月9日「はこだて冬フェスティバル」は始まった。
 函館の風景や景観を生かして冬を熱く呼吸するオマツリ。僕の好きな時間と空間、建物や歴史を主役に各種のイベントやバザールを演出。多くの人に出歩いてもらい、函館の冬を再発見、新発見して欲しい。西部地区を歩いて、その中に音楽があったり、映画に出逢ったり、面白い物に出っくわす。個人個人が自分の好きな物や意外なものに出逢ってボルテージを上げる。歩く事や参加する行為で、知らなかった人に出逢い、知らなかった自分を発見したりする楽しさ。そんな気分でやっていたのだ。
 メイン会場の元町公園には驚く程の市民が集まり、熱気であふれていた。初めて経験するレーザーショーに子供達の明るい歓声が上がった。僕は感動した。
 激しい雪が舞い踊る中をレーザーの光が幻想的な異空間を創る。公会堂の窓から赤や青や黄色の光が空につき抜ける。屋根の上に飛んだ天馬が夜空へと駆けてゆく。雪がキラキラと光る。生きている。吹雪が感動して、自ら光を放っているように見えた。子供達は飛びかう光線に手をかざしたり、逃げたり、大騒ぎだ。寒い筈なのに皆ニコニコ、暖かい気持ちで一杯だ。
 一回目の時、僕はレーザー光線のサポートをした。レーザーに興味があったので絶好の機会だった。レーザーマシーンはマイクロ波よりも波長の短い可視光線を増幅・発振する装置だ。作動中に高熱を発するため、常に冷し続けなければならない。僕達の仕事は冷すための氷や雪の塊を公会堂の裏の土手から切り出して、せっせと運ぶことが中心だった。二日目に僕の腰はギシギシと痛みを訴えた。途中で止める訳にもいかず、意地をはって動き続けた。使命感みたいなものが支えてくれたのか、何とか三日間を僕の腰は我慢を持続した。
 みんなで一緒にオマツリを創っているという実感が身も心もホットにしてくれたのだろう。レーザーの機材は安いものではない。けれど、照明機材も含めた装置を函館市で持っていたらイイダローナーと単純に思った。もちろん、簡単な話じゃないが、一億フルサト創生資金あたりで買っておけば面白かったのにナ〜などと今でも軽く思い出したりするのだ。
 さて、冬フェスの始まる前の話。ある日、呼び出しがかかった。ユニオンスクェア明治館の一室に40人位の人が集まっていた。初めて逢う人がけっこういた。冬のイベントをやるので応援しようということで、「元町に冬のまつりを創る会」が生まれた。みんなヤル気のある面白くて若々しい大人ばかりだった。自己資金を作ろうと一口五百円の募金が始まった。二千人を目標にみんな一所懸命集めた。役割分担も適材適所でスムースにいった。
 当時、あの建物の持つエネルギーというか、オーラのようなものは絶大で、場所の持つ不思議な力が人間に熱い気力を与えてくれていた気がする。中でも若い方だった僕は、多くの先輩がまぶしくて、とても幸せだった。冬フェスの出いのおかげで、その後の我が元町ライフも大きく広がっていき、とても感謝している。
 その「創る会」の事務局が古稀庵であり、岡田悌輔さんだった。
 岡田さんは自然を愛する心やさしい人で頼りがいのある人物だ。いつも静かに僕等の後ろにドンと存在していてくれた。安心してボールを投げれる、キャッチングの名手だった。試合の全体を把握して配球を考えてくれる、神わざの監督。函館の古い町並を大切にする生き方を実践した先駆者で、自分のスタイルや思考を安易に変えない骨太い人物であった。レーチェル・カーソンの「沈黙の春」という本を愛し、「ブナの木に抱きついて耳をあてると、水が歌っているように聴こえるんだよ」と嬉しそうに教えてくれた。「みんなで南の島を買おうヤ!」とも、よく言っていた。
 1月13日にその岡田さんが亡くなってしまった。悲しい。大きな大切な支えを失ってしまった感じだ。本当に色々と世話になった。こんな僕を可愛がってくれて、本当にアリガトウ。
 昨年の二月。函病に母の看病に通っていたので、毎晩、冬フェスの会場を歩いた。人形がボワ〜と光っていてヒッソリとした静かな寒い夜があった。でっかいタメ息が出た。ちょいと昔に、人の熱気や音が光に包まれていたオマツリが懐かしく蘇ってきた。僕達の力不足もあったかも知れないが・・、残念無念です。
 二月になれば、あの冬フェスの輝く雪、鼻水と腰痛、そして元気な冬の仲間達を思い出す。創る会は募金のお礼に毎年、案内カードを送っていた。ジョージさんが描いたその素敵なカードには毎回、テーマタイトルが書かれていた。「北の・夢の・お話」・・・と。


(タウン誌「街」2000年2月号)

23:15:00 | yamajo | 2 comments | TrackBacks

16 January

一月になれば巴座の階段

 60年代から70年代にかけての重要なロックグループは?と聞かれたら、ちょっと考えて、迷わず「ザ・バンド」と僕は答えるだろう。四人のカナダ人と一人のアメリカ人で58年頃に結成され、ロニー・ホーキンスのバックから始まり、ボブ・ディランのバックバンドで終わったザ・ホーク時代。その10年の下積み経験が土台となっている。デイランとの仕事で触発されたと思われる"歌をうたうことへの欲求"に満ちた音楽を68年からザ.バンドとして発表する。
  初めの2枚は特に素晴らしい。南部風の土臭いシンプルなロックだった。カントリーからリズム&ブルースまで、アメリカの色々な音楽要素が様々に組み合わされ、溶けあってひとつとなっており、ロックンロールの伝統を他に類のない形で見事に展開させていた。アメリカの土地のイメージがあり、アメリカの過去と現在が重なって感じられ、カナダ人の視点からのアメリカ発見のロックであり、その音のもつ正しい重さは五人の男の意識の共有の結果による重さを体現している。
 そのザ・バンドという楽隊の一人、べーシストでヴォーカリストのリック・ダンコが突然死んだ。12月10目ニューヨーク郊外の山中にある自宅で亡くなっていたらしい。死因はまだわからない。少しオーバーかも知れないが、僕は80年12月8目にジョン・レノンが殺された時よりもショツクを受けた。ショツクと言うよりも、何か熱い切なさの塊のようなものが心を支配した。怒りにも似た「やりきれなさ」みたいな感覚が胸をしめつけた。生き残っていた最後の支えのひとつが消滅したような気分。レコードやテープをひっばり出して毎晩、ザ・バンドやリックの歌を聴きながら、少し泣きそうになった。人が亡くなるってことはスゴイことだ。
 ふと、ひとつの光景が浮かんできた。それは、巴座の階段だった。 右奥にある二階に上がる広くて重厚な古い階段。僕は巴座の二階席が好きで、その階段を何度も昇った。見たい映画を見る前のちょっとした興奮は、別世界に向かうトキメキに似ていた。自分の靴の音までがもう映画に入っていた。78年の夏頃、僕はスーツを着てあの階段を昇っていった。革靴の音はいつもより大きく高なり、胸もドキドキしていたようだ。土曜目の夕方。その映画の初目だった。ドアを開けると一番後ろの奥に若いカップルが一組だけいた。映画の観客の入りが落ちこんで悲惨だった頃とはいえ、あまりにもヒドイ。こんなに空いているのに、なぜあんな隅に座っているのだろうと、共に映画という別世界を共有するであろう一組のカップルに少し腹が立った。僕は一番好きな二階席一番前のセンターに、ゆったりと座った。暗転した時、いよいよ見れるんだ、という気持ちで胸がまた高なった。その映画は「ラスト・ワルツ」という。後で聞いた話だけれど、巴座の支配人が、このタイトルで甘い恋愛映画とチョイト勘違いして上映したらしく、その勘違いが本当だとしたら、こっちとしては嬉しくアリガタイことでありました。勘違いに感謝です!
 「ラスト・ワルツ」はザ・バンドが16年間にわるろコンサー卜活動に、ひとつの終止符をうち、76年11月25日にサンフランシスコのウィンターランドで行なわれた最後のコンサートだ。
それを「タクシー・ドライバー」のマーチン・スコセッシ監督が映画化した。ザ・バンドにゆかりのあるミュージシャンが大挙出演。約五千人の聴衆と共にザ・バンドの最後の演奏を楽しみ、メンバーの今後を祝福したのだ。まさにアメリカン・ロックの祝祭的ライブだ。映画は単なる記録映画ではなく、監督自身がメンバーひとりひとりにインタビューして、ロックなんかじゃ喰えなかった時代、それに賭けた青春の思い出、関わりあった音楽仲間について語る言葉が印象的にインサートされている。リックが「これからどうするの?」と問われ、ちょっとうつむいて「音楽をつくり続けるだけだよ」って答える重いシーンに流れる「シップ・ザ・ワイン」というリックのソロアルバムの曲が深くしみたのだった。演奏はどれも最高で、シャンデリアを飾った「椿姫」の舞台装置の上で繰り広げられる夢のような光景は一種荘厳なムードも感じられた。ザ・バンドのステージを見るのは初めてだった。尊敬するミュージシャンの動く姿を見ることは当時、大変なことで、今じゃ信じられない程だ。
 リツク・ダンコの独特のべースピツキングと簡潔でキビキビした動きが、演奏のダイナミズムを生んでいた。巴座の二階で前にのめりこみながら、僕はウィンターランドにいる様だった。終って後ろをみたら客は誰もいなかった。一人でもう一回見た。とってもゼイタクな時間だった。函館に帰ってきて数年後だった僕は、函館はヒドイ街だな〜と思ってしまった。ザ・バンドはまさに大人の男のロックだった。今、そんなロックは無くなった。巴座も無くなった。ザ・バンドと巴座は似ている。ずっと忘れないでいよう。外見が中味を陵駕するに至った70年代の米ポッブス界で、中味で勝負しようとした彼らが苦境に追いやられた現実を想いつつ、2000年の最初に、もう一度「ラスト・ワルツ」を体験しようと思う。


(タウン誌「街」 2000年新年号)
22:48:00 | yamajo | No comments | TrackBacks

12 December

十二月になれば素肌にミンク

「魚、好きかい?」店の主が小声で言った。「ええ、好きですョ」僕は少し高い声で答えた。「生まれは、どこ?」「北海道」「の、どこ?」少し聞をおいて「はごだて」と低い声で眩いた途端、「ヨシッ!」と大声が響いた。なんだか、悪い予感がした・・・。昭和47年の初冬。その夜は木枯しが吹き荒れていて、新宿から幡ヶ谷まで歩いてきた僕の体は冷え切っていた。耳と指先が痛かった。訪ねた友人が不在で、馴染のキシメン屋も閉っていた。近くに小さなメシ屋があったので何げなく入った。客は誰もいなかったが、薄暗い中に小型の薪ストーブがあった。パチパチと木のはじける音が暖かくって、僕は夢中でストーブに手を翳していた。カウンターに刺身とお椀がトンと置かれた。何なのか、わからぬまま口に運んだ。異常に旨かった。それは鰯の刺身と鰯のツミレ汁だった。生まれて初めて食べたその味は絶妙で、鰯がこんなにも美味だった事に感激した。もう一皿注文して熱燗を飲んでいたら戸がガラガラと開いて、女の人が三人、賑やかに入って来た。席が空いているのに何故か僕の横に座った。厚化粧の匂いがした。大柄な人が「あら!スゴイ」「私もコレ!」と叫んだ。その人の髪は金色だった。真っ黒く光るコートでスッポリ体を包んでいた。それはミンクのロングコートだった。そんな物は見たことが無かったので少しドキドキした。店の常連らしいその女の人達の会話はスボットライトみたいに明るかった。何となくこつちも暖かくなって話をしていたら、ミンクのお姉さんが「目を閉じて?」と言った。目を閉じたら「ハイ!開けて」と言うので目を開けた。僕は一瞬、目がくらんだ。そこには大きな素肌があった。二ヵ所にキラキラした下着があるだけで殆どは白い肌だった。またドキドキした僕は熱燗をグビッと飲んだ。そしたらモット、ドキドキしちやって困った。彼女達は立派なストリッパーさんだった。近くに京王ミュージックという古い劇場があって、そこの踊り子さんである。出番の間をぬって息抜きに来たのだ。黒いミンクのお姉さんはサザナミさんと言う芸名で32歳のベテラン。山形県の酒田出身だ。「仕事中だから飲めないけど、もう一本飲んで」と熱燗を著ってくれた。「私は古里の“大山”しか飲まないのよ。楽屋にいつもあるから遊びにおいでよ!」と誘ってくれた。二度目に会った時、山形の話をたくさん聞いた。酒田にも港があるし、古い蔵もある。当時はミンナ、田舎のことをチョット隠していたようだ。僕も自分の中のイナカを隠していた。しかし彼女はヒトツも田舎を恥じることなく堂々と望郷していた。僕は初めて、他人に古里の話をした。港に降る雪の静かなアタタカサ、山の上から見る白い風景のヌクモリ等々。彼女は「クリスマスはきらい!」と言いつつ、母親にプレゼントする品物をあれこれ思案していた。マフラーはもう三本編んであるのに、もっと喜ぶ物がわからないと笑っていた。正月に帰りたいけど稼ぎ時だから、ずーっと帰ってないらしい。「アンタは正月に帰りなさいョ、ハゴダデに」と強く言われた。帰るつもりでなかった僕は、彼女の言葉で少し帰るつもりになっていた。雪の坂道やヒッソリとした冬の港の絵が浮かんできた。漁船の向こうに函館山が見えた。・・・      クリスマスイブの日、僕は初めてSさんの踊りを見た。迫力ある動きで、普段とは別人のように生き生きと肉体を踊らせていた。ライティングが目まぐるしく走り、赤や黄の色がステージを飛び回った。途中で彼女は黒くて長いコートで身を隠した。あの時の黒いミンクだ。黒光りする毛並から見え隠れする白い肌が実にエロチックで生々しく、僕は程良くコーフンした。鋭い眼で男達を射し、柔かい微笑で幸福そうにステージは終った。僕はボーッとしながら、Sさんの酒田港や最上川を想像した。僕の田舎とは違うけど、同じような臭いが感じられた。楽屋に寄らずに僕は帰った。                         Sさん達に出会う少し前に、ある映画をみていた。神代辰己監督の「一条さゆり・濡れた欲情」。踊り子達とヒモの哀歓を見事に描いた絶品の日活映画だ。今、もう一度見たい気持ちが湧いている。あの冬に僕は一枚のチケットを持っていた。ローリング・ストーンズの初来目のもので、宝物だった。結局、来目は中止になった。ストーンズの替りにSさんのステージを見たことになった感じだが、それで大満足。二度と見れない芸術魂を体験したんだから。あの後、少し経って劇場は無くなった。建物が無くなれば全てはオシマイ。人間もいなくなる。Sさんと最初に会った、あのメシ屋もスグ壊された。あのステージの三目後に僕は函館に帰郷した。港に漁船が浮かんでいて、素肌のような白い雪が嬉しそうに踊っていた。
(タウン誌「街」 1999年12月号)
23:18:00 | yamajo | No comments | TrackBacks